Day4 アザラシぶんぶん丸からの真打登場!(2025年6月14日)
北緯79.36度 気温4度

完璧な朝だ。
どこまでも透明で冴わたるスヴァールバルの空気。
オリテリウス号は、晴天と無風が作り出した水鏡に囲まれていた。
水面リフレクションのゴージャスな景色は今までに何度も体験しているが、ここまで広大な範囲の水面がキリリとした鏡になっているのを見るのは、天空の鏡と言われるボリビアのウユニ塩湖以来だ。
とは言っても、あちらは四国の面積に匹敵する程の大きさだから比べものにならないが。
目に映っているのは、空の青、それを受けた水面、岩山の黒、そこに残る雪。
青、黒、白、そして光だけの静寂に包まれた世界。
我々はゾディアックボートでその水鏡を滑り出した。
目指すはスヴァールバル諸島で最も象徴的な巨大氷河と言われる「モナコ氷河」だ。
末端の氷壁の高さは60メートルにも及ぶらしい。


氷河に近づくにつれて水面に浮かぶ薄い氷が増えてきた。
ボートはシャリシャリと心地良い音をさせながら進んでいく。
困ったことに好奇心が頭をもたげ、浮かぶ氷を食べずにはいられなくなってきてしまった。
「氷河」とは、山に降り積もった雪が自らの重さで圧縮され氷となったもの。
だから、淡水でできている。
「氷山」は、その氷河が崩れて切り離され海に浮かんだ氷の塊なので、これも淡水。
だが「流氷」は、冷気で海水が凍ったものだから少ししょっぱいらしい。
ボートが止まったタイミングで手頃なサイズの氷を掬い取った。
もしこれがほんのり塩味だったら流氷で、無味だとしたら氷河のカケラだ。
さあどっち?
煎餅を食べるようにカリカリ頬張る。
うん、美味しい氷河のカケラだ!
北極が私の体の一部になった!


水面に映る山々は移動するボートが描く波紋に揺らされ、もてあそばれるように左右に踊る。
浮かぶ氷たちはいつしかデカデカと存在感を増していた。
近くに寄ってみると、水中深くまで氷が伸びているではないか。
これが氷河から崩れて漂流する氷山というものか。
え、ってことは水面上に出ている部分がかの有名な慣用句「氷山の一角」ってことだよね。
海中に9割も沈んでるんだよね。
なんかカンゲキー!
だが厳密に言うと水面上部分が5メートル以上のものを氷山と言うらしいから、これはプチ氷山といったところか。

他のボートからアザラシがいるという無線が入ったのでその場所に移動すると、いたいた、氷の上にぶんぶん丸々と太ったアザラシが気持ちよさそうに横たわっている。
訪問客に気付いたようで面倒くさそうに頭を持ち上げてこちらを見たが、すぐに突っ伏してしまった。
アザラシはあちらこちらに寝転がっており、かなり近くまで寄れそうな一頭を発見したので静かに移動する。
それにしても、おっきーなー!
体長は3メートル近くあるだろうか。
体重は300キロにもなるらしい。
限界を超えて今にも破裂しそうな胴体に、小さな頭ときちんと行儀よく揃えた両足がなんともアンバランスな雰囲気を醸し出していて、クスッと笑いを誘ってくる。
陽光にキラリと光るのは、もしゃもしゃと生えた立派なヒゲ。
そう、このぶんぶん丸、正しくはアゴヒゲアザラシと言う名前なのだ。
センサーでもあるこのヒゲを使って海底にいるエビやカニを探して捕食するのだそう。
北極海で生きるアザラシの中で最大級を誇るのだが、貫禄よりも滑稽さが勝っていて親近感が湧いてくる。
二重アゴで笑顔振りまく表情に息を合わせて、カシャ!
にこにこショットいただきました!
よく見るとヒゲの先端がくるんと巻いている。
ヒゲは乾くとカールするというから、多分この子はしばらくの間、氷上で昼寝を楽しんでいたのだろう。

でもさあ、このぶんぶん丸との距離とまでは言わないけど、ホッキョクグマをもう少し近くで観察できたらいいのになぁ。
実はホッキョクグマに近づける距離は、彼らの生態を妨げないためにスヴァールバル環境保護法によって厳格に定められている。
近年の観光客急増に伴い法律が強化され、2025年からは500メートル以内に「意図的に近づく」ことが禁止された。
7月以降は300mまで近づけるが、親子の場合はその限りではない。
かなり近い将来、温暖化のため北極海の氷は溶けて無くなる。
その前に北極圏を体験しておきたいと思う人が増えたのだろう。
私もその一人だ。
ホッキョクグマを遠くからしか拝めないのはとても残念だが、ノルウェー政府の決定は正しいことだと賛同する。
と言いながらも、北緯80度より北の地域にこの法律は適用されないそうだから、後日その地域に入った時の遭遇チャンスをどうしても期待してしまう自分がいる。

アザラシぶんぶん丸たちに別れを告げ氷河の方へ向かっていると、氷の壁がドドドと叫び、氷塊を産み落とす音が鳴り響いた。
新たな氷山の誕生なのか?
立ち上がる水煙が吐く息に見え、氷河にも命の営みがあるのではとさえ思えてくる。
と、その時だ。
100メートルほど先に浮かぶ氷の上に、海中から大きな生き物が現れ飛び乗った。
えーーーーっ!
ホ、ホッキョクグマではないか!
氷の舞台に真打登場。
よっ、水も滴るいい男!
こんなことってあるんだ。
これは「意図的に近づく」ではなく、避けようのない偶然たる遭遇だ。

真打さまが少しほっそり見えるのは水に濡れているせいだろうが、それでも威風堂々とした存在感は辺り一面を圧倒する。
舌を出しながら周囲の匂いを嗅ぎ、ゆったりと辺りを見回している。
あ、こっち見た!
すかさずシャッターを切りファインダーの中で被写体と繋がる。
脳が痺れる。
ううう、この感覚がたまらない。
自然相手の撮影にはその一瞬しか味わえない特別な ワクワクゾクゾクがあるのだ。
ホッキョクグマは水中に獲物を見つけたのか動きを見せた。
後脚で立ち上がり、前脚を何かに狙いを定めるように構えたまま水の中に飛び込んだ。
獲物を抱えて浮上するのでは?と期待が膨らむも、何の変化もなく元の静かな氷の海へと戻っていった。
別のボートに乗っているクラウディオ隊長から、規則の遵守と危険回避のためすぐに移動するよう無線が入り、現実に引き戻された。
夢か現実か混乱する程の一瞬の出来事。
ボートに乗り合わせた皆の目は驚きと感激でキラキラとまん丸に見開いているから、私の暴走する妄想ではなさそうだ。
クルーザーに戻る時間になったが、心はまだ騒いでいだままだ。
皆あの偶然たる遭遇の感動を味わい直しているのか、いつになく言葉が少ない。
ゾディアックボートのエンジン音だけが賑やかに響いていた。
次回の第7話は、テキサス・バー?、北極に咲く花、地球温暖化で生態を変えたホッキョクグマの話。
お楽しみに。
<文・写真> フォトラベラーYori




