12:00 GPS 北緯81.70度 気温氷点下1度
毎朝モーニングコールのアナウンスが船全体に響き渡り起こされるのだが、今朝はそれよりも早く目が覚めてしまった。
外は一体どんな景色に変わっているのだろう。
ドキドキしながらデッキに出てみると、そこはもう氷の聖域。
見渡す限りパックアイスに覆われていた。
北緯81度、北極点までわずか870キロメートル。
これって東京から札幌の距離とそう変わらない。
地球のほぼほぼてっぺんを、オルテリウス号は無数の氷盤を優しく押し出すようにゆっくりと進んでいる。

昨日、スウェーデン人のアンダーソン船長から聞いた話を思い出した。
「これからパックアイスが漂う海域へ進むだろう。オルテリウス号は耐氷船で頑丈だから氷の中を安全に航行できるけど、砕氷船のように氷を砕いて進むようなことはしないんだ。氷を壊さないよう細心の注意を払ってゆっくりと運航させる。
それは野生動物たちの生活圏を荒らさないためなんだよ。アザラシもホッキョクグマも氷の上で子育てをする。彼らの子どもが氷上にいるかもしれないからね。そうそう、パックアイスの表面を注意深く見てごらん。クマたちの足跡が残っているかもしれないよ」
そうだ、足跡を探さなきゃ!
望遠レンズを持ってきていないから出直そう。
朝食後に、今度はちゃんと機材を準備し、長丁場覚悟の防寒完璧スタイルでデッキに出た。
先ほどより心なしか一つひとつのパックアイスのサイズが大きくなっている。
濃紺色の海をキャンバスに、純白と水色の氷盤が集まって描かれた景色は、色彩のコントラストが効いた神秘的なモザイク画のよう。
今は融解期が始まった初夏のため、一枚板だった氷は割れて大小様々なサイズとなり海を漂う。
それを風や潮流が共同作業で寄せ集めてモザイク画を描くのだ。
北極海が作り出した巨大な芸術作品がそこにあった。
私は一つひとつの氷盤の表面に意識を向ける。
船に押されると、モザイク画のピースたちは「くすぐったーい!」と言っているかのように静かにうごめき回りだす。
ん?あったあった!足跡みーつけたっ!

ホッキョクグマの歩みの痕跡は、まるで氷盤を継ぎ合わせる縫い目のよう。
ぼんやりとした大きな丸い点の連なりが、隣に浮かぶ氷盤へしっかりと続いている。
次に見つけた足跡には指の形まで残されており、そこを歩く孤高の王者の残像がはっきりと脳裏に浮かんでくる。
しばらくすると、今度は大小2種類の縫い目付き氷盤が漂ってきた。
足跡が重なっていないので、大きな個体のすぐ後ろを小さな個体がついて行ったというよりは、2頭が付かず離れずの距離を保ちながら歩いていた様子だ。
隊員に尋ねると、親子ではなく、大きい方はホッキョクグマ、小さい方はホッキョクギツネの足跡だろうという。
キツネはカモメたちと同様にクマの食べ残しを期待して後を追う習性があるのだそう。
強き者に便乗する。
それは極北を生き抜くための賢い知恵だった。
果てしなく広がる凍った無機質の世界に残された足跡は、そこに確かに存在した体温の証。
一つひとつの命の尊さを再認識させてくれる。
しみじみと感じ入っている時、嘆かわしいニュースが入ってきた。
イスラエルがイランの核関連施設を攻撃破壊したというのだ。
後に「十二日間戦争」と呼ばれる軍事衝突。
人間たちは一体何をやっているのだ。
未だに奪い合いを続け、命を粗末に扱っている。
地球温暖化も人間活動が原因であるというのが、科学者の間でほぼ一致した見解だ。
100年前、冬のスヴァールバル諸島は完全にパックアイスに包まれていたらしい。
我々が出発した港のあるロングイェールビーンも分厚い氷に覆われ、船の運行はできなかったそう。
ロングイェールビーンのある諸島西部には、世界で最も強力な暖流・メキシコ湾流からバトンを受けた北大西洋海流の末端が流れ込んでいるのだが、その海流の水温が地球温暖化のために上昇し、2000年初頭から冬でも氷に閉ざされることはなくなってしまった。
連載7話でも触れたが、白い氷は太陽光を約80%反射させるので海を冷たく保ってくれる。
しかし氷のない黒い海は90%も吸収するため水温を上昇させてしまう。
そのため、北極圏は地球のどこよりも2〜3倍も早く温暖化が進んでいるのだそう。
北極海が温まると、赤道との温度差が小さくなり異常気象を引き起こす。
最近の極端な寒波や記録的猛暑などは、北極海の氷の減少が大きな引き金の一つになっているという。
北陸・東北のドカ雪も例外ではない。
ホッキョクグマの生活をおびやかしているだけでなく、地球全体に影響が出ているのだ。
国連の組織IPCCなどの国際研究チームでは、2030年頃、片手で数えられるだけの年数で、夏の北極海から氷が消滅する可能性があると予測している。

北緯80度を超えてやっと出会えた氷のモザイク画はいつまで存在できるのだろう。
消滅しゆく北極の景色は、人類に向けられた地球の叫びだと思えてならない。
仕方ないよね、と傍観したままで良いはずがない。
地球温暖化を抑えるために個人でできる事なんて高が知れているかもしれないが、地球人一人ひとりが行動に移せば、大きな貢献になりうるだろう。
行動することで増える手間や面倒は、地球への愛情の証だと思えば楽しくもなる。
温室効果ガスの排出を抑えるために簡単にできる基本的な行動をおさらいしてみよう。
*歩いたり、自転車、公共交通機関を利用してガソリン車の使用を減らす。EV車を検討する。
*照明を約86%の省エネ効果のあるLED電球に替える。
*電力を太陽光や風力などの再生可能エネルギーを主とする会社のプランに切り替える。
*すぐに新しいものに手を出さず、3R(リデュース・リユース・リサイクル)を意識した生活に変える。

これらの対策は耳にしたことがあると思うが、意外と大きな「盲点」になっているのが「デジタル・クレンジング」。
パソコン、スマホ、クラウド上に溜まった不要データを削除することだ。
我々のデータを保管している巨大データセンターでは、サーバーを昼夜問わず一年中稼働し続け、それに伴う熱を冷やすために膨大な電力を使っている。
フランス環境エネルギー管理庁ADEMEによると、10万人のフランス人がそれぞれ50通の不要なメールを削除すれば、エッフェル塔のライトアップを1年間まかなえるエネルギーが節約できると試算している。
また、添付ファイル付きのメールを1通送信することは、電球を24時間点灯し続けるのと同等だと推定している。
目で見えないデータは汚染物質を排出しているわけでもないし無害のように感じてしまうが、実は地球温暖化と深く関わっていたのだ。
メールやクラウドを整理しよう。
読まないメルマガを解約して、不要なメールや写真を削除して、使っていないアプリをアンインストールする、などなど。
たった今からあなたも温室効果ガス排出を削減できるし、メールボックスやクラウドもスッキリするし、負担が軽くなりデバイスの寿命も延びる。
一石三鳥の素晴らしい地球温暖化対策なのだ。
そして周りの人にも伝えよう。
声を上げて広げることも大切な対策の一つなのだから。
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パックアイスに覆われた景色を歩く動物を期待していたが、鳥類と氷盤に残された足跡以外を目にすることはできなかった。
昨日、餌を食べるホッキョクグマに遭遇できたことがいかに幸運なことだったか。
残念モードが心に漂ってしまったが、それを完全払拭してくれたのが「氷点下バーベキューパーティ」だ!
日中、船とパックアイスのコラボを撮ろうとデッキをうろついていた時、ドラム缶のようなバーベキューコンロを目撃して「?」となったのだが、まさか今夜のディナーで使われるとは!
肉を焼くスタッフが盛り上がっていたので、ちょっとお邪魔してお手伝い。
パックアイスに囲まれながら食欲そそる香ばしい煙を浴びる幸せ。
でも焼いた先からどんどん冷めちゃうの、悲しいわー。


ヘリコプターデッキに準備されたテーブルに集まり、氷点下バーベキューパーティが始まった。
ビュッフェスタイルで並べられた料理は、キリッと冷えざるを得ない3種類のサラダから始まり、隣にはフードウォーマーで温められぬくぬくと幸せそうなビーフ、チキンにソーセージ、そしてデザートなどなど。
テーブルへ運んでいる間に再び冷えつつある肉には、北極スペシャルの味付けをするかのようにチラつく雪が降りかかり追い打ちをかける。
非日常体験が妙にテンションを上げてくれて楽しい楽しい!
冷たくっても美味しいぞ!

MV Ortelius: Photo by OCEANWIDE
お腹がいっぱいになったところでテーブルが片付けられ、ダンスフロアーに早変わり。
振舞われたアルコール効果もあってパーティは夜が更けるまで続いたのだった。
と言っても白夜だから昼間と同じ明るさだけどね。
仲間のGPSウォッチには「日没まであと75日」と表示されている。
そういえば6月8日にシドニーを出発して以来、夜空も星もずっと見ていない。
暗くなる夜というものが遠い存在に思えてきた。
船尾から海を臨むと、オルテリウス号が通ってきた航路が、眠らない氷の原野に敷かれた道のように残されていた。

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次回の第11話は、水面バナナ?や、月まで飛べる鳥?がいる極北のフィヨルドの話。お楽しみに!
<文・写真> フォトラベラーYori
出典:Kabaun “What is the carbon footprint of an email and how can it be reduced?”




