Day7 極北のフィヨルド(2025年6月17日)
12:00 GPS 北緯80.03度 気温1度

昨日の最北緯82度をピークとし、オルテリウス号はパックアイスの世界から南下を始めている。
水面の氷はまばらとなり、ランチ前にはすっかり姿を消してしまった。
何も浮かんでいない海の景色は寂しすぎて、氷盤のモザイク画に囲まれていたことが夢だったのでは?とさえ思えてくる。
本日の目標地点は、スピッツベルゲン島北西部に位置するマグダーレン(Magdalene)というフィヨルドだ。
見えてきた陸地には鋭く切り立つ三角形の山々が連なっている。
その特徴的な景観はオランダ語で「尖った・spits」「山々・bergen」を意味し、諸島最大のこの島の名前となった。

さんさんと降り注ぐ陽光で、世界がキラキラと輝いている。
海には光の銀河が渡り、そこに浮かぶゾディアックボートはまるで空飛ぶ宇宙船だ。
我々は救命胴衣を付け、星が散らばる宇宙へと滑り出した。
プチ氷山を眺めながらフィヨルドの奥湾へ進むと水面には浮遊するクラゲのような氷が漂っており、宇宙船はシャリシャリと音をたてながら小気味良くその中を進んでいく。
正面に立ちはだかったのは40メートルもの高さの氷壁、ワゴンウェイ氷河(Waggonwaybreen)の末端部分だ。
分厚い氷が押し寄せるダイナミックな景観は怖いほどに圧倒してくる。
氷の唸り声が響き渡った。
海鳥が青い空へ羽ばたいていく。

氷河なのにワゴンウェイ、荷車の道と呼ばれるのは何故だろう?
この名は、氷河が動く際に削った岩や土砂などが堆積してできる黒い線・モレーンが、荷車が移動するときに残されるわだちに見えたのが由来だそう。
てっきり、氷河を滑り台のように利用して、奥で採掘された石炭をヒューンと滑らせ海で待つ運搬船へ送りこんでいたからだと思った。
想像が自由すぎた、ははは。
場所を移動すると、遠くの水面にバナナ状の物体が点在しているのが見える。
近くに寄ってみれば、とぼけた顔したゼニガタアザラシたちだった。
干潮時に岩が水面に露出するタイミングでゼニガタ君たちはその上で休息したりひなたぼっこをするらしいが、体より小さな岩の上にちょこんと乗っかり、脇腹クランプエクササイズ実践スタイルで頭と足をピンと上げたままジーッとしている。
休息として、その体勢は正しいのか?
陸地の方がのびのびリラックスできるのではないのか?
しかし、ゼニガタ君たちが北極で生き抜くためには水面バナナである必要があった。

水に囲まれた離れ石へ移動するのは、天敵であるホッキョクグマの奇襲を避けるため。
ゼニガタ君たちにとって素早く動けない陸地は安全地帯とはいえず、秒で海に逃げ込める場所を選んでいたのだ。
小さな離れ岩なら、巨体のクマは足場が足りず登ってこれないという利点もある。
休息やひなたぼっこは体力・体温回復に欠かせないが、なんせ場所が狭い。
脂肪が少なく冷えやすい頭と足を濡れないようにすると、自動的に水面バナナになってしまうというわけ。
絶えず筋肉を緊張させているから、いざという時、バネのようにビョーンと跳ねて海に飛び込むこともできる。
ただ、熟睡するチャンスは少ないだろうと気の毒に思ってしまうのだが、ゼニガタ君たちは数分程度のうたた寝を何度も繰り返す睡眠方式なのだそう。
情報収集しながらの警戒モード付き寝落ち反復睡眠法。
それゆえの寝ぼけおとぼけ顔なのかもしれないが、そんな呆けたフリをしておいて、実のところ分厚い脂肪に隠された筋肉はムッキムキで瞬発力も抜群なのだろうな。
恐るべし愛嬌満点水面バナナたちなのであった。

フィヨルドは砂浜という余白を持たず、海から直接突き上がる山々に囲まれている。
小さなゾディアックボートは山神様たちに覗かれながら、人間を拒む城壁のような断崖に沿ってゆっくりと進んでいく。
しばらくすると浅瀬になり、申し訳程度の砂と小石の浜が現れた。
たくさんの鳥が水の上でヒラヒラと舞っている。
昨日、野鳥のレクチャー時に初めて知り、私の心を鷲掴みにしたキョクアジサシ(arctic tern)だ。
餌を見つけたらしく、水面から5メートル程の空中でホバリングをし、狙いを定め、次の瞬間一気に水へ突っ込んだ。
あちらこちらで水面ダイブが繰り広げられており、私は興奮して撮影を試みるのだが、小さいし早いし慌てちゃうわで全然ピントが合わせられない。
またしてもピンボケ写真大量生産で泣けてくる。
飛翔が撮れない美しいその鳥は、ハトより一回り小さいがシュッとしており、長い尾っぽをひるがせて飛ぶ姿がカッコいい。
体に似合わず大きな翼は淡いグレー、体は白、黒い帽子をかぶり、真っ赤なくちばしと足が差し色となりおしゃれにキメている。

私が魅了されたのは姿だけではなく、驚異的な生態。
キョクアジサシのキョクとは「極」のこと。
彼らはその小さな体で北極と南極を渡り続けているのだ。
今の6月は繁殖のため北極に戻ってきている。
生まれたヒナはたった1〜2ヶ月で飛べるようになり、そのタイミングで寒さ厳しくなる前に北極を離れ、アフリカあたりを終点にしても良さそうなものの、そんな中途半端なことはせず南下を続ける。
南極に到着するのは11月〜12月、南半球の夏が始まる頃だ。
妥協しないのは、寒さが緩んだ気候、少ない競合、爆発的に増える餌のオキアミや小魚の恩恵に与るためなのだ。
やっと飛べるようになった幼鳥ですら、いきなり地球半周の旅に出てしまうという異次元的能力!
人間の私も、今回の旅の始まりは南半球のシドニーを出発し、カタール、オスロを経由して北極圏のロングイェールビーンまで約2万キロメートル、地球半周分の距離を移動をした。
乗り継ぎを入れないフライト時間だけでも、25時間を空中で過ごしたことになる。
映画見て機内食食べて寝るだけなのにヘトヘトだ。
キョクアジサシは、地球上で最も長い距離を自力で移動する圧倒的スペックを持つ超生物なのだった。
もう感動でしかない。
北極と南極の往復は約4万キロメートルだが、2010年に発表された英国南極調査局(BAS)の研究によると、キョクアジサシ1年間の飛行距離はなんと7万キロメートル以上。
寿命はおよそ30年。
例えば月までの距離を76万キロメートルだとすると、彼らは生涯で地球と月を3往復近く飛行する計算になる。
あの小さな体にどんなエネルギーが循環しているのか。
白夜の夏を追いかけ両極を行ったり来たりするため、暗い夜を経験するのは数ヶ月の期間だけだそう。
マグダーレンでは安定のピンボケ飛翔撮影だが、実は翌日なぜか奇跡的に撮れてしまった。
せっかくなので、ここで白夜を渡る美しいキョクアジサシの飛行を見てやってください。

オルテリウス号へ戻る途中、神秘的なクリスタルブルーで存在を主張している氷山に魔法をかけられ、我々は磁石のように引き寄せられていった。
数千年もの時間を積み重ねてできた氷河から分離し、海へ解き放たれた氷山たち。
太陽を背後から受けた氷は、自ら発光するかのように青い光を放っている。
複雑に重なる滑らかな彩氷は数千年の時と色彩が織りなすアブストラクトな芸術作品だ。
ファインダーをのぞいていると、その不思議な時空へと吸い込まれてしまう。
陽光を受けた氷の先から、ぽちゃん、ぽちゃんとこぼれ落ちる雫が長旅を終えて海へ還っていく。
何千年もの時を閉じ込めたタイムカプセルだと思うと、雫すらも愛おしくなってくるのだ。




この極北のフィヨルドには他にも面白い形をしたプチ氷山がいくつも浮かんでいた。
まるで太陽がクリエイティビティを発揮し、龍やクジラの形に彫刻したかのよう。
しかし、数時間もすれば溶けて違う姿に変わってしまうのだろう。
雫の音を寂しげに響かせる、諸行無常な氷山たちなのであった。
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次回の第12話は、おしくら茶まんじゅうセイウチ山の話。お楽しみに!
<文・写真> フォトラベラーYori
出典:British Antarctic Survey/Terns clock up the miles




